「上宮聖徳」2

 ミチタリは再び飛ぶように柳井水道に戻った。母子は飛鳥の官衙の一画に入り祖父や父親不在で慎ましやかな生活を始めて程なく、柳井水道から筑紫侵攻作戦の開始、筑紫奪還の成功の知らせが次々と飛鳥の官衙に届いた。飛鳥だけで無く纏向、斑鳩、平群など大和盆地全体が戦勝に沸き立った。程なく、鬼前の前に出雲を本拠地とする土師氏の族長が訪い、

「太子様の乳母を土師氏が務めたく存じます」

「ミチタリ様が柳井水道に戻られて留守にしております。相談いたしますので返事はそれからにさせてください」

「良いご返事をお待ちしております。お手伝いが必要であれば何時でも、お申し付け下さい」

「ありがとうございます」

赤子はすくすくと育ち、目が見え、寝返りを始めた。官衙の住人が代わる代わる訪い赤子をあやして、

「太子様は耳が良いようじゃ、太鼓や鉦をお持ちしましょうかの」

 生まれて一年が過ぎ、匍匐前進から掴まり立ちを始めた頃、ミチタリが飛鳥に戻ると河内湾の日下の津から見張りの連絡が入った。

 翌日、飛鳥の船着き場に母子で迎えの列に並んだ。船中にミチタリの姿を認め鬼前は大手を手を振った。船中のミチタリも迎えの列の中に鬼前を認め大きく手を振った。迎え人から湧上がる様に、

「ミチタリ様がお帰りだ」

 手に手に紅白の旗を打ち振り、凱旋将軍を迎えた。下船したミチタリは、

「皆様のお陰で筑紫が奪還できました。ありがとうございます。今暫くは帰還が叶わぬ兵が多く居りますが、皆元気に職務に励んでおります。引き続きご協力下さい」

 歓呼の声に手を上げながら鬼前に歩み寄り、吾子を抱き上げ、

「重くなったな、父だぞ覚えてくれ。留守に何かあったか」

「土師氏の族長が見えられ、乳母を務めさせて下されと申し入れがございました」

「土師氏は先代の大王就任に尽力してくれたそうじゃ。喜んで頼もう」

 久方ぶりの鬼前との同衾に、しとどに放ったミチタリは深い眠りに落ちた。

「カゴメカゴメカゴの中のトリは」

 童の歌声に目覚めたミチタリは素早く身支度を調え、朝餉の支度をする鬼前に、

「明日早朝に筑紫に戻る。朝餉を食したら土師氏の長に会いに参る」

「分かりました。出立の準備を致しておきます」

 纏向の一画にある土師氏の屋敷を訪れ、

「ミチタリにございます。吾子の乳母に名乗りを上げて頂きありがとうございます。今暫くは筑紫を空けられないと思います。何分にも宜しくお願いします」

「広庭様、足庭様、ミチタリ様の三代に見え、四代様の乳母を務められるとは喜びに堪えませぬ。老骨に鞭打って精一杯務めます故、ご安心下され」

「日出処の天使」完 第二部「上宮聖徳」1

 三笠山の頂きに朝暘が昇り、斑鳩の里に点在する溜池の群れを照らし、 アキアカネが乱舞し、柿の木には青い実が育ち始めていた。

 産屋から赤子の泣き声が甲高く聞こえ、家人達に歓声が上がった。

「太子がお生まれになったぞ」

「柳井水道のミチタリ様にお知らせせねば」

「羅尾様が飛鳥に戻って居られるそうじゃ。伝言を頼めば良いぞ」

 秦王国改め俀国大王の太子ミチタリに長子が生まれ、妃の鬼前太后は産屋で無事の出産を喜び、ほっとしていた。

「お妃様元気な赤子で良かったですね」

「ありがとう。足庭様もミチタリ様も皆、柳井水道に居られる。誰ぞが、羅尾様が飛鳥にお戻りにと言って居られたが」

「足庭様が羅尾様に後宮の人達を新都の柳井水道に移らせるように言われて、戻られております」

「それでは、羅尾様に言伝をお願いしましょう」

「分かりました。若党を飛鳥の官衙に走らせましょう」

 秦王国改め俀国の主立った面々は秦王国の悲願、筑紫奪還に向けて大船団を組み瀬戸内水運の要衝、柳井水道に進駐し、東漢氏としては二代目の大王に就いていた足庭は都を飛鳥から柳井水道に移す遷都を宣していた。

 羅尾は後宮の人々を多数の杖刀の兵で警護して船団を組み柳井水道に無事到着し、父の大王に見え、

「ミチタリ様のお子がお生まれでした」

「そうか、男か女か」

「男の子です」

「誰ぞ、ミチタリを此処に呼んで下され」

 戦闘訓練の指揮を執っていたミチタリはカブトを小脇に抱えたまま、

「父上、お呼びでしょうか」

「羅尾が後宮を護衛して戻った。斑鳩で男の子が生まれたそうじゃ。おめでとう」

「ありがとうございます」

「一度、飛鳥に戻って、子の顔を見てきなさい」

 ミチタリは飛ぶように瀬戸内を辷り飛鳥から斑鳩に戻った。

「鬼前でかした、ありがとう」

「うれしゅうございます」

「母子共に元気で安心した。直ぐに柳井水道に戻る。次は何時帰れるか分からぬ、小太郎殿に警護は頼んでおく。頼んだぞ」

※小太郎は足庭の二番目の弟・三郎の長男

「日出る処の天使」66

 西都原の男狭穂塚古墳を見終えた古代史サークルのOB四人はレンタカーでそのまま福岡県古賀市の船原古墳に向かった。

 ハンドルを握った島津が、

「それにしてもグッドタイミングだよな。帰国の日に船原古墳で金の馬具が見付かったというコラムを見るなんて」

 西園寺が、

「鳥肌が立ったよ」

 島津が、

「豊国王だった次郎さんの愛用の馬具だよな」

 美佳が、

「大和にあった秦王国の大王位が第十四代大国主から東漢の族長に譲られ二代目の足庭大王・隋書のアマタリシヒコが秦王国悲願の筑紫奪還に成功し、東表国を豊の国と改め弟の次郎を豊国王に任命、竹斯国王に息子の太子・隋書のリカミタフリを充てたのよ」

 香苗が、

「足庭大王が高句麗交易を推進し、西漢の族長の弾が高句麗から金の馬具二組を持ち帰り、足庭が次郎さんと太子に与えたのよね」

 西園寺が、

「筑紫奪還から十年、豊国王の次郎さんが亡くなり殯され、西漢の族長だった弾も亡くなり、足庭大王が随との国交を断絶したタイミングで倭国が反撃を開始し戦闘の火蓋が切られる直前、足庭が三郎に殯の次郎の埋葬を指示し、大国主一族が未完にしていた前方後円墳の一画に次郎が愛用していた金の馬具一式と共に埋葬したんだ」

 美佳が、

「太子のリカミタフリに与えられた金の馬具は更に長男の上宮聖徳に与えられ、弟との政争に敗れ妻と共に自害し藤ノ木古墳に金の馬具と共に葬られたのよ」

 島津が、

「今日は、このまま船原古墳に行くと暗くなるので東表国の都、宇佐八幡を見物して宇佐市内に泊まろう」

 香苗が、

「いいわね、製鉄民族の原郷、ヒッタイト王国の都、ハットウサを文字って宇佐八幡て名付けたのよね」

 西園寺が、

「中臣氏、蘇我氏、ウガヤ王家、ニギハヤヒ王家、皆絡んでる。いいよ寄ろう」

 美佳が、

「宇佐八幡には花郎軍団が一時駐屯し墨染めの衣とよばれたので源氏一族にもインドの次の原郷ですね」

 島津が、

「じゃ、決まりだ」

 翌朝、四人は船原古墳に向かった。島津が、

「船原古墳の場所は初代大国主命が建国した委奴国から近いよな。建国してからイワレヒコ神武に攻められ東遷するまで凡そ五十年位あり前方後円墳の陵を造る機会は充分あったと思うんだ。東遷後大和盆地で造った前方後円墳の習作にもなったかもな」

 西園寺が、

「神武が建国した伊都国は須玖岡本に大規模な陵墓地を持っており、神武もその地で甕棺埋葬されているんだ。ウガヤ王家はこの時期、前方後円墳を造っていないんだ」

 美佳が、

「そう考えると、船原古墳の前方後円墳は委奴国の大国主一族が残したと考えて良さそうね」

 早苗が、

「三郎もそう理解し次郎の埋葬場所に相応しいと考え急場の埋葬地に選んだのね」

 島津が、

「船原古墳に着いたよ」

 西園寺が、

「未だ見られるかな」

 美佳が、

「発掘調査は始まったばかりよ」

 香苗が、

「ロープが張ってあるわ」

 島津が、

「行けるところ迄、行ってみよう」

 西園寺が、

「コラムの記事等から推測すると、埋葬位置は平成八年の発掘調査で船原3号墳の石室入口から約5Mだと書いてあった」

 美佳が、

「埋納当時も西側が平坦地で東側が斜面だったのね」

 香苗が、

「逆L字型の長手部分に弓等の長物を、短手部分に歩揺付飾り金具等が埋められたようね」

 島津が、

「三郎さんが埋納を終えて春日の王宮に駆け付けるのは造作ないね」

 西園寺が、

「古墳外に馬具等のみを埋納されたものが発掘されるのははじめてだよな。高句麗から弾が持ち帰り、足庭から次郎さんに渡された愛用の馬具を足庭大王に指示された三郎さんが急ぎ埋納したと考えて間違いないね」

 島津が、

「須玖岡本の伊都国遺跡をみて、博多で旨いものを食って帰りますか」

 美佳が、

「鯛茶づけが食べたいな」

 香苗が、

「賛成」

 西園寺が、

「決まりだ」

「日出る処の天子」65

 平成二十五年六月、古代史サークルのOB四人は羽田発のJAL一番便で宮崎へ発ち、空港でレンタカーに乗込み西都原古墳に向かった。

 ハンドルを握った島津が、

「卑弥呼はイカッサル族公孫氏大物主王家の宗女で、王家が遼東半島に有るとき、東扶余ウガヤ王家の罽須・後のイワレヒコ神武が北九州侵攻作戦のために同盟を申し入れたんだ」

 白のゆったりしたパンツスーツの美佳が、

「それ、以前調べた話ね。扶余王の罽須が大物主王家の宗女卑弥呼の妹アヒラ姫を娶り、事代主の公孫康が罽須の妹武熾姫を娶りクロス対婚関係を結び同盟したのね」

 グレンチェックのプリーツスカートの香苗が、

「神武に嫁いだアヒラ姫が亡くなり、姉の卑弥呼が後妻に入り同盟を維持し、公孫康が日向に開いた安羅国と神武が築いた伊都国を行き来したのよ。神武は一大率として伊都国や東扶余の倭人諸国を監察する多忙な中AD二百三十四年崩御し、一大率の地位を巡って倭の大乱が起こりますが伊都国、多婆羅国、安羅国及び東表国の諸王が図って倭人連合の邪馬壱国を建国して卑弥呼を大王に推戴したのよ」

 美佳は、

「邪馬壱国の大王にし即位した卑弥呼は都を安羅国に定め神武王子のタギシシミミを伯済国から呼び寄せ夫婿とし君臨したのよ」

 美佳が続けて、

「邪馬壱国と狗奴国長髄彦との戦いが続く最中、卑弥呼はAD二百四十八年崩御し、イカッサル族の手で西都原に大きな円墳の冢が造られ丁重に葬られたは」

 西園寺が、

「そこまでがサークルで話されたんだが、それが今から行く男狭穂塚古墳。この古墳は三世紀に築造され、直径百二十八メートルの四段式円墳だったんだが、明治期に偽史シンジケートのドン東大史学科黒板勝美教授の手で二十四メートルのクビレ部分と六十七メートルの変な尻尾をくっ付け帆立貝風の前方後円墳に改竄したんだ」

 島津が、

「その後、大正元年から六年間かけ大規模な学術調査が実施され、この古墳が卑弥呼の墓と確認されたはずが、以後それら全てを宮内庁管理にし、現在は古墳時代中期に築造された前方後円墳とし被葬者は架空の人物のニニギノミコトであると説明しているんだ」

 美佳が、

「もう博物館前に着いたのね。ここからは歩くしか無いのね」

 西園寺が、

「考古博物館を先に見ようや」

 香苗が、

「あら、モダンな建物ね」

 島津が、

「安羅国だからね」

 美佳が、

「あら、無料なんだ」

 西園寺が、

「平成十六年の開館だから、凡そ十年だね」

 見学を終えて美佳が、

「男狭穂塚と女狭穂塚のレイアウトどう見ても不自然ね、くっ付き過ぎてるは」

 香苗が、

「広大な古墳群ですものね。一部では女狭穂塚は壱与の墓ではと推測されていますが、それでも不自然ね」

 島津が、

「卑弥呼の円墳の冢が完成し、後の倭大王の前方後円墳がつくられた時は不自然ではなかったんだが、明治期に円墳を帆立貝風に改竄したため不自然な接近になったんだな」

 西園寺が、

「腹減ったな、飯にしようや」

「日出処の天子」64

 坂上が、

「僕はイカッサル族の話をしよう。目は茶色、BC七世紀頃、アンガ系チャム人を従えてタルシシ船でインド洋マレー海峡から北上して華北中原に入っているが、途中、ソロモンとシバの女王ビルギースとの間に生まれたメリケリ王子の血が入っているんだ。遼東で公孫氏になり大物主王家を建てます。扶余伯族のイワレヒコと同盟を結び北九州の大国主命の委奴国に侵攻し勝利し日向の西都原に安羅国を建国します。宗女卑弥呼がイワレヒコ神武の後妻に入り神武崩御後、邪馬壱国の女王になり君臨しますが狗奴国との戦いの最中に崩御しイカッサル族の手で西都原の男佐穂塚の円墳の冢に丁重に葬られます。宗女の壱与が直ちに即位し対馬に渡り任那祭祀センターを立ち上げ、神武の息子の綏靖に嫁ぎ安寧を産み倭大王になりウガヤ王家にイカッサル族の血を入れることになるんだ。太田、木村、松山、水野、今野などの姓がこの系統です」

 伊集院が、

「ユダ族はあまり来ていないんだが、ニギハヤヒに従って少し入っているよ。目は茶色。藤岡、加賀、大川の姓はこの系統なんだ」

 麗華が、

「ダン族ね。目は黒色。レビ族と一緒に渡来して、最初は河内に入り西漢と呼ばれるのよ。後に根拠地を大和の平群に移しているのよ」

 由紀が、

「最後はゼルブン族にします。目は黒。このグループの族長には葛城氏がいます。原田、石井、黒木、滝田などの姓がこの系統です」

 伊集院が、

「今日は長くなったな、疲れた。飯食いに行こうか」

 麗華が、

「サンドイッチ店、未だ開いているかな」

 坂上の携帯が鳴り、

「あっ、西園寺先輩からだ。はい、坂上です。はい、部活終わったところです。はい、大丈夫です」

 由紀が、

「先輩なに」

 坂上が、

「みんなで飯、行こうって」

 伊集院と麗華が、

「やったー」

「日出処の天子」63

 麗華が、

「私はレビ族の話をします。レビ族は祭祀部族で目は茶色、杖刀を扱います。西晋末、中原から高句麗を経由して五世紀に列島には遅れて渡来します。東漢氏の頭領として西漢氏の頭領になるダン族と共に瀬戸内を進みレビ族は飛鳥の檜隈に定着します。シメオン族大国主命の十四代に男子が生まれなかったため、大和秦王国の大王位を継承します。レビ族は祭祀だけでなく土木工事も得意で墳墓も水運も手掛けました。二代目の時、筑紫に侵攻し倭国を駆逐し、俀国と呼ばれ、遣隋使を送ります。第一回は文帝に、第二回の煬帝の時、有名な「日出る処の天子、日没する処の天子に致す。恙無しや」の国書を送ります。その後、隋と国交断絶を通知した時期に倭国の反撃を受け戦死し、三代目は飛鳥に戻り秦王国に戻します。白村江の戦いのあと新羅占領政権の大和侵攻までレビ族が大王位を努めます。島津、伊集院、伊地知、細井、中村、中島、小柳、宮田、後藤、大和田、中川の姓はこのレビ族の系統です。島津家の紋章は丸に十字紋ですが、これはイスラエルの紋章です。島津家の祭祀の時はイスラエル大使館から正式の祝いの使者が参加したりするそうです」

 由紀が、

「私はガド族ね。目は茶色、ガド族は孔子、孟子の末裔と言われ、秦帝国始皇帝の焚書坑儒を嫌い、半島を南下、BC八十六年、対馬を経由してヘレニズム文化を携えて鉄鐸、銅鐸文化の祭祀者として博多に上陸、吉武高木に伊勢国を建国します。猿田彦が初代王になり青銅器文化の先進国が誕生します。二代目の猿田彦は近くの平原に王宮を作ります。九州の地の縄文人や、稲を携えてきたシュメール人の苗族を支配下に置きヘレニズム文化を九州全体に広めていきましたが、AD百六十三年、吉野ヶ里のシメオン族大国主が東表国と連合し吉武高木と平原の王宮を襲撃し超大型青銅鏡を始めとする、祭祀道具を破壊します。やむを得ずガド族は二手に分かれて東進し一隊はスサノオノミコトの開いた出雲国に合流し、一隊は大和に入り東鯷国を建国します。更に、もう一隊は伊勢に入り伊雑宮を祭ります。しかしながら、シメオン族が大和に侵攻したため、伊勢に逃れ伊勢国を建国します。

 時は流れ、新羅占領政権が奈良朝を立ち上げ、シメオン族の不比等が占領軍司令官郭務悰の仲介でガド族の娘、宮子と結婚し聖武天皇の母親になり、ガド族は聖武天皇を御ガド・ミカドと呼ぶようになるのよ。津守、服部、田辺、比留間、内山、石川、岡部などの姓がガド族の系統です」

「日出処の天子」62

 坂上が、

「此処からはイスラエル十二部族個別の状況を話していきましょう。まずは秦王国の主人公・大国主命のシメオン族から始めよう」

 伊集院が、

「シメオン族から始めます。南朝ユダ王国に属し、碧眼で鷲鼻が特徴です。日本の皇室の三笠宮を代表に、その特徴が残っています。この部族は幸運にも度重なるアッシリア等の周辺諸国の暴虐、拉致からも故地に戻れました。ペルシャの支配下に入っている時にアレクサンダー大王が東征を開始しペルシャを滅ぼし、その東征に従軍しました。帰還後は総督の地位を得ており、バクトリアの地に秦王国を建国しました。百年後、その地の知事ディオドトスが亡きアレクサンダー大王の遺志を継ぎ殷の地に侵攻、圧倒的な軍事力で中原の倭人諸国を駆逐し秦帝国を建国し始皇帝に就任します。それまでの中国内の国家とはかけ離れた政策で統治します。自らのアイデンティティを確立するために偽史を編み焚書を行い、反抗する者を生き埋めにした、焚書坑儒事件を起こします。焚書坑儒事件から逃げ出したガド族達は半島に向かい、その後、北九州に渡ります。始皇帝の政権は短期に終了し、始皇帝の死と共に秦帝国は崩壊しシメオンの遺人達は遼東に向かい公孫氏に合流していましたが、東表国から吉野ヶ里の地の割譲を受けガド族を追う様に北九州に渡来し、BC七十四年吉野ヶ里の地で委奴国を建国します。これを伝え聞いた南越の秦王が率いる苗族達も合流します。国力を付けた委奴国は博多のガド族の王宮を急襲し駆逐し博多に遷都します。AD二百四十年、扶余伯族イワレヒコ達が北九州に侵攻し戦いに敗れたシメオン族は東遷を始め一隊は出雲王国に侵攻しガド族を駆逐し、本隊は大和に侵入しガド族の東鯷国を破り纏向に秦王国を建国します。博多からの移動の際「委奴国の金印」を紛失しますが江戸時代になって志賀島の畑から発見されます。新羅占領政権の奈良朝の時、鹿島の扶桑国でシメオン族の族長になっていた不比等が中臣氏の仲介で朝廷に上がり、ガド族津守氏の娘宮子と結婚し八百年続いたガド族との抗争に終止符を打ち、宮廷内で頭角を現し宮子と二人三脚で聖武政権を誕生させ、後の藤原政権の基礎を築きます。紋章は剣と盾のデザインです。藤原、西園寺、鈴木、加藤、竹中、西村、黒田、柳沢などの姓を持つ人達はこの系統と言われています」

「日出処の天子」61

 坂上は、

「日本書紀と古事記は同じ時期に別々に存在したウガヤ王朝史と東表国史と金官加羅史などを縦に繋いで長く伸ばして構成されているんだ。神武、綏靖、安寧、威徳の四代はウガヤ王統を、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の五代は東表国、金官加羅の王統が崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、応神はウガヤ、百済王統が充てられているんだ。内容、エピソードは百済史や新羅史からとられているんだ」

 伊集院が、

「奈良朝は政権を維持するためには多くの部族の協力が必要なので、内閣が組閣する時、過半数を得るために連立を組むのと同じ手法を採り、第二十六代から二十八代の三代に安羅大伴王家の談、金村、歌の三人を継体、安閑、宣化として取り入れているんだ」

 麗華が、

「権力が移行するたびに日本書記は書き換えられているのよ。不比等の原案では神武以前の五十一代を越えるウガヤフキアエズ王朝史が記されていましたが奈良朝新羅政権はウガヤフキアエズを人名に代え一代にしたのよ。のちの世の淡海三船が天皇諡号に「武」の文字を使ったのは政権転換初代を示し、神武、聖武、天武、桓武がそれに当たるは」

 由紀が、

「聖武は藤原政権初代、天武は新羅政権初代、桓武は百済政権初代なのね。聖武の時に藤原仲麻呂が書き換え、桓武の時は道鏡などの百済系の人達が記紀を改竄したのよ」

 坂上が、

「史記はオリエント史の翻案漢訳でアッシリアは周、ペルシャは秦、ウルク・ウルが夏、イシンが殷、アッカドが五帝、エジプトが斉、マケドニアが田斉、ユダ王国が宗、イスラエル王国が魯、預言者エリアは孔子として描かれているんだ」

 麗華が、

「アッカド・ウルクのエンエタルジが炎帝、ルーガルザキンが蚩尤、アッカドのサルゴンが黄帝、マニシュトスが堯、ナラムシンが舜に翻案されているのね」

 伊集院は、

「その翻案されるオリエント史をつぶさに見ると、紀元前七百二十二年、アッシリア王サルゴン二世はサマリアを奪取し北朝イスラエル王国を滅亡させた後、イスラエル人をバクトリア方面に移動させ、天山山脈に近いメデスの地に居留させた後、消息を断った。この人々は「失える十氏族」と言われています。紀元前五百九十七年バビロン王ネプカドネザル二世はエルサレムを攻撃し南朝ユダ王国の人民をバビロンに連行し、さらに紀元前五百八十七年ユダ王国を滅ぼして、再び人民を連行した。この人々はアケメネス朝ペルシャがバビロンを滅ぼした後、解放されて故国に帰りますが、一部の人々はペルシャに残留してペルシャに仕えました」

 麗華が、

「アッシリアとスキタイの同盟軍の圧迫でウラルトゥ王朝がウガヤフキアエズ王朝に変身しオリエントの騎馬民族キンメリと共に東方に移動しウガヤ王朝は扶余伯族になりキンメリは匈奴になった頃、アッシリアのサルゴン王によって滅ぼされ、強制的に住民移動させられた北朝イスラエルの十氏族も匈奴や扶余伯族と同じようにシルクロードを辿って移動し中国に入ったと想像されます。

 アフガニスタンのバルクには紀元前五百年頃のユダヤ人のコロニーががあり、シルクロードの全域にわたってユダヤ人の遺跡があり、中国に近いハズナには九世紀ころ、多くのユダヤ人鉱業者がいて十一世紀にはユダヤ人が四万人になっていたそうです」

 由紀が、

「開封のユダヤ人コロニーは良く知られていて十八世紀まで連綿と生き続けユダヤ教を奉じていましたが、度重なる天災や人災で漢民族に同化したそうよ」

「日出処の天子」60

 麗華が、

「モーゼに率いられたヘブライの民は出エジプトを果たし、約束の地カナンに辿り着き定着しイスラエル人を自称したのよ。紀元前十世紀頃、古代イスラエル王国を建国しダビテが王になり、次代のソロモンの時、最大版図になりタルシシ船交易が盛んになりますが、ソロモンの死後、紀元前九百三十年頃、イスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまうのよ」

 由紀が、

「紀元前七百二十二年、アッシリア帝国は北の王国イスラエルに侵攻し、十部族全てを拉致しアッシリアに連れ去りました。ユダヤ人達はアッシリアの地で奴隷同然の生活を強いられ、いつの間にか歴史上から一旦消えました」

 坂上が、

「ルペン、ガド、エフライム、イカッサル、ゼブルン、ナフタリ、アシェル、ダン、マナセ、ベニヤミンのイスラエル十部族は「東方の霧深い山のかなた」へ消えたとも伝えられています。アフガニスタンや中国、朝鮮、日本などに行ったとも言われています。日本はユーラシア大陸の西の端から東の端まで相当な距離がありますが、ほぼ同緯度を辿って行けますので、古代人にもそれ程、難しくなかったと思う」

 伊集院が、

「南のユダ王国もアッシリアに拉致されますが幸運にもユダ国に戻されます。ユダとシメオンはユダの地に残りユダヤ人と呼ばれるようになるんだ」

 麗華が、

「紀元前六百九年、ユダ王国はメギドの戦いでエジプトに敗れエジプトの支配下に入りますが、紀元前六百六年にエジプトが新バビロニアに敗れ、紀元前五百八十七年に新バビロニアに侵攻されエルサレムは包囲され、翌年にはユダ王国は滅亡し、多くの人民がバビロンの捕囚になるのよ」

 由紀が、

「紀元前五百三十九年、オビスの戦いで新バビロニアはアケメネス朝ペルシャに敗れ、ユダヤ人は解放されてエルサレムに戻れたのよ」

 坂上が、

「紀元前三百二十三年、アレキサンダー大王が東方遠征の途に就いた時、ユダヤのシメオン族達は従軍するんだ。アレキサンダー大王の死後百年後、南ユダ王国にいたシメオン族が今のアフガニスタン辺りにバクトリアを建国しており、ディオドトスが王になり、アレクサンダー大王の遺志を継いで殷に侵攻し秦帝国を築き始皇帝に就任するんだ。それがシメオン族大国主命の大和の秦王国を産むことになるんだ」

 伊集院が、

「始皇帝は自らのルーツが中国にあることにするため偽史を編ませます。シメオン族の偽史シンジケートの誕生です。始皇帝は、紀元前二百十二年、中国の重要な書物を悉く焼却させます。焚書坑儒の始まりです。その上、翌年には、焚書令に背いたかどで、儒学博士や史学者たち約四百六十人を穴に生き埋めにします。坑儒事件です」

 麗華が、

「中国の歴史の古典「史記」はユダ系レビ族の血を引いた司馬遷が書いたと言われていますが、司馬遷は漢王によって宦官にされ漢民族ため「偽史」作りを強要され、それに従って始皇帝が書かせたシメオンの偽史をなぞりオリエント史を下敷きに執筆したのよ」

 由紀が、

「その後の極東に生まれる国は日本も高句麗も百済も新羅も全て偽史シンジケートの影響の中で史書が作られているのよ。征服王朝は一般的に自己を正当化するため、その祖先は昔からその地で長く政権に就いていたと書くために他国の歴史を借りる、借史を行うのよ。秦帝国、漢王朝はオリエント史を、日本の奈良朝の日本書紀や古事記は新羅史と百済史、新羅史は金官加羅史を借史しているのよ」

「日出処の天子」59

 麗華が、

「吉備真備書の三国相伝では、帝釈天に仕える牛頭天王は顔が牛の様で頭には角が生え鬼の様でありました。そのため妻もいませんでした。あるとき帝釈天の使いが来て「南海の頬梨采女をもらえ」と言ったので牛頭天王は喜び勇んで南海に赴きました。八万里の行程のうち、三万里に及ばない鬼の国、広遠国で人馬共に疲れてしまい、その国の鬼の王、巨旦大王に一夜の宿を乞いますが断られます。すると、そこにいた婢が「東の広野に蘇民将来の庵があります。貧しいけれど慈悲のある人です。そこに宿をお求めなさい」と薦めました。牛頭天王がそこへ行くと、蘇民将来は貧しい食料を彼に給し、歓待しました。歓待した翌日、「私の隼鶏という宝船で行くと速いでしょう」と自分の乗船を貸しました。牛頭天王は無事南海に着き、そこで二十一年を過ごし、頬梨采女との間に八人の王子を得、眷属も八万四千六百五十四神になりました。やがて后妃や一族を連れて広遠国に攻め入り、巨旦らを殺し、あの婢を助け出し、蘇民将来に広遠国を与えました。事前に「急々律令」の文字を書いた赤い札を蘇民将来たちに配り門口に貼らしておきました。牛頭天王は蘇民将来に「のちのよに寒熱の病気にかかれば、それは我々のせいである。だが、お前の子孫だけは病にかからないように二六の秘文を授けよう、五節の祭礼を違えず、二六の秘文を収めて厚く信敬せよ」と言いました」

 由紀が、

「この真備バージョンには、ソロモンがタルシシ船でシバの女王ビルキースと出会い子をなした物語が盛り込まれているのよ」

 坂上が、

「モーゼが出エジプトで紅海を割って渡った神話も、僕の考えでは世界中に変形バージョン流布していると思うんだ。ラーマーヤナの中で「コーサラ国の王ラーマは勇気溢れる、徳の優れた王子でした。そのラーマが自分のお腹を傷めた息子を王位に即けたいと願う継母の奸計に陥れられ、愛妻のシータと弟のラクシュマナーの二人だけを伴って流浪の旅に出ます。旅の途中、ラーマは愛妻のシータを魔王ラーヴァナにかどわかされますが、諸国遍歴の末、霊猿マヌマットに助けられ、ついに魔王の本拠地であるセイロン島の対岸迫ると、猿の大軍がやってきて橋を作り、ラーマとラーマの大軍を島に渡し、シータを救い出してめでたく都に戻り王位に就きます」セイロン神話としても残っているんだ」

 伊集院が、

「それが、ジャワの伝説では「ネズミジカはかねがね河を渡ろうと思っていたが、洪水で水嵩が増してとても泳ぎ切れそうにない。そこで、岸に立ってワニを呼んで「私は今度王様の命令で、お前さん達の頭数を調べに来ました」と言った。ワニは一列に並んで、こちらの岸から向こうの岸まで続いた。ネズミジカは「一つ、二つ、三つ」と数えながら、ワニの背中を踏んで対岸に渡り終わると、ワニののろまさを嘲った」となるんだ。それが古事記の「因幡の白兎」ではワニは変わらないもののシカがウサギに変わり、大国主の命が登場して丸裸になったウサギを助ける話になっているんだ」