「日出処の天子」62

 坂上が、

「此処からはイスラエル十二部族個別の状況を話していきましょう。まずは秦王国の主人公・大国主命のシメオン族から始めよう」

 伊集院が、

「シメオン族から始めます。南朝ユダ王国に属し、碧眼で鷲鼻が特徴です。日本の皇室の三笠宮を代表に、その特徴が残っています。この部族は幸運にも度重なるアッシリア等の周辺諸国の暴虐、拉致からも故地に戻れました。ペルシャの支配下に入っている時にアレクサンダー大王が東征を開始しペルシャを滅ぼし、その東征に従軍しました。帰還後は総督の地位を得ており、バクトリアの地に秦王国を建国しました。百年後、その地の知事ディオドトスが亡きアレクサンダー大王の遺志を継ぎ殷の地に侵攻、圧倒的な軍事力で中原の倭人諸国を駆逐し秦帝国を建国し始皇帝に就任します。それまでの中国内の国家とはかけ離れた政策で統治します。自らのアイデンティティを確立するために偽史を編み焚書を行い、反抗する者を生き埋めにした、焚書坑儒事件を起こします。焚書坑儒事件から逃げ出したガド族達は半島に向かい、その後、北九州に渡ります。始皇帝の政権は短期に終了し、始皇帝の死と共に秦帝国は崩壊しシメオンの遺人達は遼東に向かい公孫氏に合流していましたが、東表国から吉野ヶ里の地の割譲を受けガド族を追う様に北九州に渡来し、BC七十四年吉野ヶ里の地で委奴国を建国します。これを伝え聞いた南越の秦王が率いる苗族達も合流します。国力を付けた委奴国は博多のガド族の王宮を急襲し駆逐し博多に遷都します。AD二百四十年、扶余伯族イワレヒコ達が北九州に侵攻し戦いに敗れたシメオン族は東遷を始め一隊は出雲王国に侵攻しガド族を駆逐し、本隊は大和に侵入しガド族の東鯷国を破り纏向に秦王国を建国します。博多からの移動の際「委奴国の金印」を紛失しますが江戸時代になって志賀島の畑から発見されます。新羅占領政権の奈良朝の時、鹿島の扶桑国でシメオン族の族長になっていた不比等が中臣氏の仲介で朝廷に上がり、ガド族津守氏の娘宮子と結婚し八百年続いたガド族との抗争に終止符を打ち、宮廷内で頭角を現し宮子と二人三脚で聖武政権を誕生させ、後の藤原政権の基礎を築きます。紋章は剣と盾のデザインです。藤原、西園寺、鈴木、加藤、竹中、西村、黒田、柳沢などの姓を持つ人達はこの系統と言われています」

「日出処の天子」61

 坂上は、

「日本書紀と古事記は同じ時期に別々に存在したウガヤ王朝史と東表国史と金官加羅史などを縦に繋いで長く伸ばして構成されているんだ。神武、綏靖、安寧、威徳の四代はウガヤ王統を、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の五代は東表国、金官加羅の王統が崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、応神はウガヤ、百済王統が充てられているんだ。内容、エピソードは百済史や新羅史からとられているんだ」

 伊集院が、

「奈良朝は政権を維持するためには多くの部族の協力が必要なので、内閣が組閣する時、過半数を得るために連立を組むのと同じ手法を採り、第二十六代から二十八代の三代に安羅大伴王家の談、金村、歌の三人を継体、安閑、宣化として取り入れているんだ」

 麗華が、

「権力が移行するたびに日本書記は書き換えられているのよ。不比等の原案では神武以前の五十一代を越えるウガヤフキアエズ王朝史が記されていましたが奈良朝新羅政権はウガヤフキアエズを人名に代え一代にしたのよ。のちの世の淡海三船が天皇諡号に「武」の文字を使ったのは政権転換初代を示し、神武、聖武、天武、桓武がそれに当たるは」

 由紀が、

「聖武は藤原政権初代、天武は新羅政権初代、桓武は百済政権初代なのね。聖武の時に藤原仲麻呂が書き換え、桓武の時は道鏡などの百済系の人達が記紀を改竄したのよ」

 坂上が、

「史記はオリエント史の翻案漢訳でアッシリアは周、ペルシャは秦、ウルク・ウルが夏、イシンが殷、アッカドが五帝、エジプトが斉、マケドニアが田斉、ユダ王国が宗、イスラエル王国が魯、預言者エリアは孔子として描かれているんだ」

 麗華が、

「アッカド・ウルクのエンエタルジが炎帝、ルーガルザキンが蚩尤、アッカドのサルゴンが黄帝、マニシュトスが堯、ナラムシンが舜に翻案されているのね」

 伊集院は、

「その翻案されるオリエント史をつぶさに見ると、紀元前七百二十二年、アッシリア王サルゴン二世はサマリアを奪取し北朝イスラエル王国を滅亡させた後、イスラエル人をバクトリア方面に移動させ、天山山脈に近いメデスの地に居留させた後、消息を断った。この人々は「失える十氏族」と言われています。紀元前五百九十七年バビロン王ネプカドネザル二世はエルサレムを攻撃し南朝ユダ王国の人民をバビロンに連行し、さらに紀元前五百八十七年ユダ王国を滅ぼして、再び人民を連行した。この人々はアケメネス朝ペルシャがバビロンを滅ぼした後、解放されて故国に帰りますが、一部の人々はペルシャに残留してペルシャに仕えました」

 麗華が、

「アッシリアとスキタイの同盟軍の圧迫でウラルトゥ王朝がウガヤフキアエズ王朝に変身しオリエントの騎馬民族キンメリと共に東方に移動しウガヤ王朝は扶余伯族になりキンメリは匈奴になった頃、アッシリアのサルゴン王によって滅ぼされ、強制的に住民移動させられた北朝イスラエルの十氏族も匈奴や扶余伯族と同じようにシルクロードを辿って移動し中国に入ったと想像されます。

 アフガニスタンのバルクには紀元前五百年頃のユダヤ人のコロニーががあり、シルクロードの全域にわたってユダヤ人の遺跡があり、中国に近いハズナには九世紀ころ、多くのユダヤ人鉱業者がいて十一世紀にはユダヤ人が四万人になっていたそうです」

 由紀が、

「開封のユダヤ人コロニーは良く知られていて十八世紀まで連綿と生き続けユダヤ教を奉じていましたが、度重なる天災や人災で漢民族に同化したそうよ」

「日出処の天子」60

 麗華が、

「モーゼに率いられたヘブライの民は出エジプトを果たし、約束の地カナンに辿り着き定着しイスラエル人を自称したのよ。紀元前十世紀頃、古代イスラエル王国を建国しダビテが王になり、次代のソロモンの時、最大版図になりタルシシ船交易が盛んになりますが、ソロモンの死後、紀元前九百三十年頃、イスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまうのよ」

 由紀が、

「紀元前七百二十二年、アッシリア帝国は北の王国イスラエルに侵攻し、十部族全てを拉致しアッシリアに連れ去りました。ユダヤ人達はアッシリアの地で奴隷同然の生活を強いられ、いつの間にか歴史上から一旦消えました」

 坂上が、

「ルペン、ガド、エフライム、イカッサル、ゼブルン、ナフタリ、アシェル、ダン、マナセ、ベニヤミンのイスラエル十部族は「東方の霧深い山のかなた」へ消えたとも伝えられています。アフガニスタンや中国、朝鮮、日本などに行ったとも言われています。日本はユーラシア大陸の西の端から東の端まで相当な距離がありますが、ほぼ同緯度を辿って行けますので、古代人にもそれ程、難しくなかったと思う」

 伊集院が、

「南のユダ王国もアッシリアに拉致されますが幸運にもユダ国に戻されます。ユダとシメオンはユダの地に残りユダヤ人と呼ばれるようになるんだ」

 麗華が、

「紀元前六百九年、ユダ王国はメギドの戦いでエジプトに敗れエジプトの支配下に入りますが、紀元前六百六年にエジプトが新バビロニアに敗れ、紀元前五百八十七年に新バビロニアに侵攻されエルサレムは包囲され、翌年にはユダ王国は滅亡し、多くの人民がバビロンの捕囚になるのよ」

 由紀が、

「紀元前五百三十九年、オビスの戦いで新バビロニアはアケメネス朝ペルシャに敗れ、ユダヤ人は解放されてエルサレムに戻れたのよ」

 坂上が、

「紀元前三百二十三年、アレキサンダー大王が東方遠征の途に就いた時、ユダヤのシメオン族達は従軍するんだ。アレキサンダー大王の死後百年後、南ユダ王国にいたシメオン族が今のアフガニスタン辺りにバクトリアを建国しており、ディオドトスが王になり、アレクサンダー大王の遺志を継いで殷に侵攻し秦帝国を築き始皇帝に就任するんだ。それがシメオン族大国主命の大和の秦王国を産むことになるんだ」

 伊集院が、

「始皇帝は自らのルーツが中国にあることにするため偽史を編ませます。シメオン族の偽史シンジケートの誕生です。始皇帝は、紀元前二百十二年、中国の重要な書物を悉く焼却させます。焚書坑儒の始まりです。その上、翌年には、焚書令に背いたかどで、儒学博士や史学者たち約四百六十人を穴に生き埋めにします。坑儒事件です」

 麗華が、

「中国の歴史の古典「史記」はユダ系レビ族の血を引いた司馬遷が書いたと言われていますが、司馬遷は漢王によって宦官にされ漢民族ため「偽史」作りを強要され、それに従って始皇帝が書かせたシメオンの偽史をなぞりオリエント史を下敷きに執筆したのよ」

 由紀が、

「その後の極東に生まれる国は日本も高句麗も百済も新羅も全て偽史シンジケートの影響の中で史書が作られているのよ。征服王朝は一般的に自己を正当化するため、その祖先は昔からその地で長く政権に就いていたと書くために他国の歴史を借りる、借史を行うのよ。秦帝国、漢王朝はオリエント史を、日本の奈良朝の日本書紀や古事記は新羅史と百済史、新羅史は金官加羅史を借史しているのよ」

「日出処の天子」59

 麗華が、

「吉備真備書の三国相伝では、帝釈天に仕える牛頭天王は顔が牛の様で頭には角が生え鬼の様でありました。そのため妻もいませんでした。あるとき帝釈天の使いが来て「南海の頬梨采女をもらえ」と言ったので牛頭天王は喜び勇んで南海に赴きました。八万里の行程のうち、三万里に及ばない鬼の国、広遠国で人馬共に疲れてしまい、その国の鬼の王、巨旦大王に一夜の宿を乞いますが断られます。すると、そこにいた婢が「東の広野に蘇民将来の庵があります。貧しいけれど慈悲のある人です。そこに宿をお求めなさい」と薦めました。牛頭天王がそこへ行くと、蘇民将来は貧しい食料を彼に給し、歓待しました。歓待した翌日、「私の隼鶏という宝船で行くと速いでしょう」と自分の乗船を貸しました。牛頭天王は無事南海に着き、そこで二十一年を過ごし、頬梨采女との間に八人の王子を得、眷属も八万四千六百五十四神になりました。やがて后妃や一族を連れて広遠国に攻め入り、巨旦らを殺し、あの婢を助け出し、蘇民将来に広遠国を与えました。事前に「急々律令」の文字を書いた赤い札を蘇民将来たちに配り門口に貼らしておきました。牛頭天王は蘇民将来に「のちのよに寒熱の病気にかかれば、それは我々のせいである。だが、お前の子孫だけは病にかからないように二六の秘文を授けよう、五節の祭礼を違えず、二六の秘文を収めて厚く信敬せよ」と言いました」

 由紀が、

「この真備バージョンには、ソロモンがタルシシ船でシバの女王ビルキースと出会い子をなした物語が盛り込まれているのよ」

 坂上が、

「モーゼが出エジプトで紅海を割って渡った神話も、僕の考えでは世界中に変形バージョン流布していると思うんだ。ラーマーヤナの中で「コーサラ国の王ラーマは勇気溢れる、徳の優れた王子でした。そのラーマが自分のお腹を傷めた息子を王位に即けたいと願う継母の奸計に陥れられ、愛妻のシータと弟のラクシュマナーの二人だけを伴って流浪の旅に出ます。旅の途中、ラーマは愛妻のシータを魔王ラーヴァナにかどわかされますが、諸国遍歴の末、霊猿マヌマットに助けられ、ついに魔王の本拠地であるセイロン島の対岸迫ると、猿の大軍がやってきて橋を作り、ラーマとラーマの大軍を島に渡し、シータを救い出してめでたく都に戻り王位に就きます」セイロン神話としても残っているんだ」

 伊集院が、

「それが、ジャワの伝説では「ネズミジカはかねがね河を渡ろうと思っていたが、洪水で水嵩が増してとても泳ぎ切れそうにない。そこで、岸に立ってワニを呼んで「私は今度王様の命令で、お前さん達の頭数を調べに来ました」と言った。ワニは一列に並んで、こちらの岸から向こうの岸まで続いた。ネズミジカは「一つ、二つ、三つ」と数えながら、ワニの背中を踏んで対岸に渡り終わると、ワニののろまさを嘲った」となるんだ。それが古事記の「因幡の白兎」ではワニは変わらないもののシカがウサギに変わり、大国主の命が登場して丸裸になったウサギを助ける話になっているんだ」

「日出処の天子」58

 平成二十五年五月、上雉大学古代史サークルの現役メンバーは定例の部会を開き、坂上が口火を切り、

「今年のテーマはユダヤの失われた十部族でどうかな」

 麗華が、

「西園寺先輩が『高松塚とキトラ古墳』って言ってたけど、そのテーマは面白そうね」

 伊集院が、

「古代のユダヤと現在のユダヤは全然違っているんだ、いいんじゃないか」

 由紀が、

「殆どの部族が日本に来ているみたい。やりましょう」

 坂上が、

「それじゃ、来週資料を持ち寄ろう」

 麗華が、

「先輩達そろそろ戻ってくるんじゃない。お土産買って来てくれるかな」

 伊集院が、

「そりゃないな。案外ドライなんだよ」

 由紀が、

「顔見せてくれるだけでいいじゃん」

 翌週、部室に古代史サークルのメンバーが再び全員集合した。白いブラウスにダークグレーのタイトスカートを穿いた麗華がスラっとした足を組み替えて、

「知らないこと一杯あったわ」

 黒のTシャツにGパンの坂上が、

「現在はユダヤ人の定義が緩いんだな」

 グレー系市松模様のスポーツシャツ姿の伊集院が、

「大金持ち一杯いるんだね」

 水色の格子柄のワンピースを着た由紀が足を揃えて、

「銀行家や映画人にも沢山いらっしゃるのね」

 ショートヘアの麗華が、

「ユダヤは中東の遊牧の民セム族の中から出た部族です。紀元前二千年前後、始祖のアブラハムはメソポタミヤのウルから一族を引き連れて、現在のイスラエル・パレスチナ付近の「カナンの地」に移住し渡り歩く人「ヘブライ人」と呼ばれたのよ。紀元前千九百年頃、ヘブライ人にヤコブという人が現れ、自分の名をイスラエルと改めます。このイスラエルには叔父ラバンの娘で姉のレア、レアの美しい召使いジルバ、レアの妹のラケル、ラケルの美しい召使いビルハの四人の妻が居り、それぞれの妻との間に十二人の息子が生まれます。レアの子供にはルペン、シメオン、レビ、ユダ、イカッサル、ゼルブンの六人です。ジルバの子供はガド、アシェルの二人です。ラルケの子供はヨセフ、ベニミヤンの二人です。ビルハの子供はダン、ナフタリの二人です。この十二人の息子の子孫が、後のイスラエルの十二部族を形成することになります」

 お下げで三つ編みの由紀が、

「紀元前十七世紀頃、ヘブライ人はカナンの地からエジプトに移住を強制され奴隷となります。その後、ヘブライ人の指導者にモーゼが現れ、イスラエル人を率いてエジプトを脱出しようとしますすがエジプト王は許さず、絶望するモーゼに神の言葉が降り「この月の十月に子羊を捕まえ十四日に殺して、流れる血を戸口に塗りなさい。目印になる様にベッタリと、そうして家に閉じこもりなさい。その晩、私の使いがエジプト中をを風の様に過ぎ越して、目印の無い家に生まれた子供たちを全て殺していきます。そしてお前達はエジプトを旅立ちます」その夜、教えに従った家には何も起こらなかったが、目印の無いエジプト人の家では、男の初子は皆、死んでしまいました。この事に怯えたエジプト王は、暁を待たずにイスラエル人の出発を許しました。イスラエル人はそれを記念して、未来永劫に、過ぎ越し祭ることを誓いました」

 麗華が、

「この過ぎ越しの祭り神話は世界に伝承され、日本にも伝わり蘇民将来伝説になりました。備後風土記では、昔、武塔神が南海の神の娘の所へ夜這いに出かけましたが、途中で日が暮れてしまいました。そこに蘇民将来と巨旦将来の兄弟がいました。武塔神は一夜の宿を頼みました。弟の巨旦将来は金持ちで、家や倉が百もあるのに惜しんで宿を貸さなかった。兄の蘇民将来は大変貧しかったが、宿を貸しました。粟ガラで座る所を作り、粟飯をご馳走し、武塔神は無事に出発することができました。年月が流れ、武塔神は南海の神の娘の間に八人の子をもうけ戻ってきました。武塔神は兄の蘇民将来に再会して言いました。「弟の巨旦将来に報復しよう。お前の子が弟の家にいるか?」蘇民将来の娘が弟の家に婦として侍っていた。すると武塔神は「彼女に茅草で作った輪を腰につけさせよ」と教えた。武塔神はその夜、蘇民将来の娘一人を残し、弟の一族をことごとく殺してしまいました。そして「私は速須佐雄の神なり。のちの世に疫病があれば蘇民将来の子孫と言って茅草の輪を腰につけよ。そうすれば疫病を免れるであろう」といいました」

 由紀が、

「蘇民将来の茅草の輪伝承は、更に神社の大祓の家内安全神事の茅の輪くぐりとして全国に広がっています。蘇民将来の娘が腰に付けた茅草の輪がディフォルメされ、それをくぐると家内安全が図れる。行事になったのよ」

「日出処の天子」57

 平成二十五年五月、古代史サークルOB四人は揃って帰国、西園寺は降り立った成田空港の新聞スタンドの武豊キズナでダービー勝利の見出しに惹かれスポーツ紙を購入し空港バスに乗り込み、拡げた文化欄に船原古墳隣接地から黄金に輝く馬具出土のルポ記事を目敏く見付け、

「来週、福岡の船原古墳に行こうぜ、藤ノ木古墳で出土した馬具とそっくりだ」

 ネットを検索した島津が、

「豊国王だった二郎さんの愛用の馬具かも知れんな」

 同じ様にネットを検索していた美佳が、

「藤ノ木古墳は上宮聖徳が埋葬されたのよね。父親から譲り受けた、弾が高句麗から持ち帰った馬具ならそっくりでもおかしくないわね」

  香苗が、

「スポーツ紙の見出しキズナつながったかも、埋葬者論争が起きて結論が出ないまま国宝に指定されるのね」

 西園寺が、

「今も、シメオン族が連綿と守り続けた偽史シンジケートの伝統が健在なら、そうなるね」

 島津が、

「明治維新政府が自己保身のため明治憲法を制定し皇国史観浸透の徹底を企図し、東大国史学教授の黒板勝美が忖度し西都原の卑弥呼の円墳に変な尻尾を付け前方後円墳に改竄し神話に登場するニニギノ命の墓と強弁させるほか、日本書紀、古事記に反する史跡古文書を抹殺した行為が伝承されている」

 美佳が、

「卑弥呼も正当評価してほしいわね」

 香苗が、

「来週、船原古墳の後で西都原古墳にも行きましょう」

 西園寺が、

「それじゃ、決まりだね。今度は国内を歩こう」

「日出処の天子」56

 道庭は上宮聖徳の立太子式を槻広場で盛大に催した。上宮の乳母を務める土師氏達に見守られ煌びやかな衣装に身を包み道庭に譲られた馬具を装備した馬に跨り広場を巡った。久し振りの明るい儀式に飛鳥は沸き立っていたが、上宮聖徳の弟の乳母を買って出ている太秦の若党が苦い思いで見物していた。

 「綱手様、そろそろ弟君の大王位就任に向けて手を打って参りましょうよ」

 「未だ、次期尚早じゃ」

 筑紫敗戦の反省もあり、秦王国族長会議は定期的に開催されるようになっていた。東漢、西漢を中心とした体制から、太秦の秦氏や蘇我氏の台頭が著しい体制となり、次の大王位は東漢の一存で決めさせない雰囲気が醸成されていた。太秦秦氏の族長に就任していた継手は、

「上宮様は文に片寄る嫌いが見え、弟宮は武に秀でておられるようじゃ。道庭殿、弟宮様を後継にされたら如何じゃ」

 大和飛鳥の秦王国は豪族たちの鬩ぎ合が激しくなり、筑紫の倭国は本拠地を奪回したが同盟国百済が新羅の台頭に呻吟し、新羅は花郎軍団の参入に軍事大国への変貌をあからさまにし、高句麗は隋を一蹴したものの新羅との衝突を懸念していた。中原は隋が滅び、唐が勃興し大国への道を走り始め、周辺国は一斉に唐へ擦り寄り始めた。

「日出処の天子」55

 西園寺が、

「鉄を求める旅は更に続いて、再び天の鳥船に乗り福建省の南平で鉄を作り、河南省南陽に移り『宛の徐』となって一大製鉄基地を建設し東表国と共に殷文化圏の鉄供給の一端を担ったんだ」

 島津が、

「安住の地を得たと思われたニギハヤヒ一族ではあったが、紀元前二百二十一年、突如バクトリア知事ディオドトスが怒涛の勢いで殷に侵攻し秦帝国を建国し始皇帝に就任するんだ」

 美佳が、

「アレキサンダー大王の遺志を継いだシメオンの頭領ね」

 香苗が、

「最先端の軍装備で殷文化圏の倭人達は手も足も出なかったのよ」

 西園寺が、

「北支にあったウガヤ王朝の大扶余は満州の地に移り北扶余を建国し、南陽の宛の除のニギハヤヒ軍団は再び再び、アマツマラを船長に天の鳥船に乗って長江を下り黄海を北上し、渤海を更に北上し遼河を遡り遼東に除珂殷を建国するんだ」

 島津が、

「北倭記第三十一章に『是よりさき、宛の除、海を濟り、舶臻し、殷に倚り、宛難に居り、地を闢くこと數百千里、弦牟達に築き、昆莫城と稱し、國を除珂殷と號す』と書かれているんだ」

 美佳が、

「ホーチミンから南陽に飛んで」

 香苗が、

「河南省の南陽から瀋陽に飛べばいいのね」

 西園寺が、

「南陽から遼東に移ったニギハヤヒは除珂殷を建国しアグリ王朝を建てアグリナロシを名乗ったんだ。その頃、始皇帝が急死し秦帝国は脆くも滅亡し、権力の空白を埋める様に漢が勃興し帝国を建て周辺国の再編が始まる中、衛満が殷に大遼河を背にして漢の侵入を防ぎたいと申し入れ、殷はこれを入れ、衛満を大遼河と遼河の間に封じました。衛満は漢に説いて言いました。殷は秦の亡命者を匿っています、私はこれを滅して漢の郡を置き後患を断ちたいと申し入れます。漢は喜んで衛満に兵を与えます。衛満は殷を急襲し領土を奪い、漢は蒼海郡を置いて除珂殷を阻止しました。殷王は除珂殷に亡命し、秦族は半島に逃れ、殷は滅びます」

 香苗が、

「それから、どうなるんですか」

 西園寺が、

「アグリナロシは衛満の策謀に怒り、殷のために仇を討とうと思い漢に撤回を計り、漢は郡を置かないと約束し王印を与え誓いましたが、漢は楽浪郡と玄菟郡を置いたのでナロシは怒って自刃します」

 美佳が、

「それから」

 西園寺は続け、

「ナロシの子、アグリイサシは父の憤怒を思い、蒼海郡を襲い、郡主を切り殺し一族を率いてメソポタミアとペルシャ湾での縁を頼りウガヤ王朝が建国していた北扶余に合し、扶余は強大になったんだ」

 島津が続け、

「軍事力に勝るニギハヤヒ達は忽ち北扶余の実権を握り王権をウガヤ王朝から簒奪してしまいました。やむを得ずウガヤ王朝は東扶余に遷移しました。アグリイサシは名を改めて北扶余後期王朝の東明王と名乗りました」

 西園寺が、

「その後、東扶余で王権争いが生じ、他の七人王子と対立した朱蒙が卒本に亡命し建国していた高句麗が強大になり周辺諸国を略奪破壊で脅かし始めたので、ニギハヤヒ達はその膨張政策を嫌い二百四年、連合大船団を組み再び再び、アマツマラを船長に天の鳥船に乗り遼河を下り遥々渡海し、先に九州に亡命していた陜父の末裔を頼りバカンの多婆羅国に参入したんだ」

 美佳が、

「それから先は良く知っているは、東扶余王の罽須が高句麗王子五瀬命と共に公孫氏と同盟し博多と吉野ヶ里の大国主命の委奴国を攻撃、三年を掛けて勝利し、その勢いでニギハヤヒの多婆羅国を攻めるも弾き返され、東表国の仲介で和睦したのよ」

 香苗が、

「和睦に応じたニギハヤヒの尊は北扶余でウガヤ王家から奪った王権を変換しアグリの姓と十種神宝を奉呈するのよ」

 西園寺が、

「以後、これが三種の神器による天皇譲位の魁になり、そして、二代目大国主命の東遷と大和の秦王国の歴史の始まりになるんだ」

 美佳と香苗が、

「これで日本に帰れますね」

 島津が、

「早く、コメの飯と味噌汁を食いたいな」

「日出処の天子」54

 美佳が、

「マレー半島のクラ地峡ね。クアラルンプールから行くしかないのかな。遠いはね。空から見ましょうよ」

 香苗が、

「バンコック経由でクラ地峡の一番狭い所に近いラノーン空港行に乗れるは」

 西園寺が、

「ラノーン付近では早くから運河計画があったんだよ。そのルートで行こう」

 クラ地峡の上空から美佳が、

「ニギハヤヒ軍団は何故、地峡越えを選んだのかな、マラッカ海峡を通るルートもあるのに」

 島津が、

「ガンジス河口を出て季節風に乗ると眼下の海域までは簡単に来れるんだ。この先のマラッカ海峡は潮の流れが速く非常に狭隘で海賊の出没等危険が多いため安全を期したのかな」

 ラノーン空港に降り立って香苗が、

「クラ地峡は本当に細いはね。ニギハヤヒ軍団は向こう岸に船を集めて置いたのかな」

 西園寺が、

「それは考えられるな、軍団は岸伝いに北上してメナム川の河口に入り周辺のモン族モンクメールを従えて物部族の名を与え吐火羅国建て、メコン河口に移りオケオの港からメコン流域に入り文郎国を建国したんだ。これが前七世紀になるのかな」

 島津が、

「モンクメール物部氏の加入でニギハヤヒ軍団全ての顔触れが揃うんだね」

 美佳が、

「天神本記に三十二神、二十五部の神と書かれた軍団を率い饒速日尊、己に天照大神の紹を奉じ、乃ち天の磐船に乗りて大虚空翔けと描かれているわね。我らもバンコックに戻ってプノンペン空港に飛びますか」

 香苗が、

「プノンペン空港からホーチミン空港に行きましょう」

「日出処の天子」53

 デリーに到着して西園寺が、

「インダス文明の遺跡じゃないんだが、カルディアの製鉄カーストになったヒッタイト達の製鉄技術の象徴とも思える『錆びない鉄柱』を見ようよ」

 島津が、

「千五百年経っても錆びてないんだってね、行こう」

美佳が、

「ヒッタイト達のインド入りで各地に製鉄所が作られカルディア人にもアーリア人にも鉄製農具が行きわたりガンジス北側の硬い土壌の開墾が進み両者の東進は中流域から下流域に達し、下流側からもフェニキアのタルシシ船に乗って開拓者が入り、カルディア人のシャキー族がコーサラ国を、フェニキア人が中心になりマガタ国を建国したのよ」

 香苗が、

「後に、コーサラ国、別名アユダ国はヒッタイト繋がりで宇佐八幡の東表国が半島に建国した金官加羅の初代王金首露の求めに応じ、王女黄玉を嫁がせ、後に許太后と呼ばれたのよ。宇佐八幡の名前はヒッタイト王国の首都ハットウサに因んで名付けられたのよ」

 西園寺が、

「許はコーサラのことなんだ。更に後年、グブタ王朝が滅亡した時、クシャトリア達は漂流の旅に出て許太后の縁を頼り金官加羅から独立して強国となった新羅に入り外人部隊の傭兵軍団になり、新羅の軍事力の中枢を担い半島制覇の原動力になるんだ。ニギハヤヒ達はインド製塩カーストのアグリア族を吸収しアグリの姓を加えるんだ」

 島津が、

「カルディア人のシャキー族は前門のフェニキア系マガタ国、後門のアーリア人諸国の軍事的圧迫を嫌いロータルで合体したメルッハ族のアマツマラを船長に再び天の鳥船に乗りインドからマレー半島に向かうんだ。後に、シャキー族からシャカ族が興り釈迦の誕生に繋がるんだ。次はマレー半島に行こう」